・・・狸毛の筆というのは、空海によってはじめて導入されたものであろう。・・・正倉院に所蔵されている多くの筆をしらべたところ、羊毛の筆と兎毛の筆の二種類しかなく、狸毛はなかったという。羊毛や兎毛の筆は穂先が柔らかくて南帖風──たとえば王羲之──の文字を書くばあいにいいが、いかめしい北碑風──たとえば顔真卿──の文字を書くには、毛のこわい狸毛のほうがよかったのかもしれない。・・・顔真卿の書法は、指掌をうごかすような小わざを用いず、ひじを張り、筆を垂直に立て、そのままひじでもって筆を垂直に圧しつつ筆画をつくるという肘腕法を専一としている。楷書とくに大楷に特徴があり、その雄勁な造形については、「点は墜ちてくる石のごとく、画は夏の雲のごとく、鉤は屈金のごとく、戈は発弩のごとく」という古来の評がいかにもよくその書風を形容する。この顔真卿流の書風に倣おうとすれば、やわらかい羊毛筆や兎毛筆よりも、狸毛の筆が、筆としてもっとも適していたであろう。空海以前に、日本にはどうやら顔真卿の書が入っていなかったように思える。(「空海の風景」司馬遼太郎)
顔法が空海によってもたらされたというのは、彼の入唐時期からみて矛盾はないと考えられますが、それまで王羲之の書風を第一等としていた日本の貴族たちは、一体どれほどの衝撃を受けたんでしょうかね。
帰国してから、この新進の書風を嵯峨天皇に薦めたであろうことを思うと、既成の概念に囚われることのない空海の性格が伝わってくるようです。
泰書会では顔法の作品もよく書きますから、上にある説明は、日頃感じている印象そのままであり、非常に的確で正しい内容だと思います。
懸腕直筆は、できていないと何度も指摘されてしまう、まさに基本中の基本なのです。
司馬氏は専門家でもないのに、書に関してここまで細かく取り上げているのは、ある意味驚きと言えないでしょうか。
このへんの知識って、難しそうでなかなか調べたりしにくい分野なのにもかかわらず、文庫本の中で比較的平易な文章を用いて考証してくれているので、かなり助かりますね。